憤怒 ira

たった1つ残されたのは「憤怒」あの男はそう言った。もう誰のものかは判らなくなってしまったけれど。
それは何に対しての怒りだったのだろう。抗い難い運命へか、勝手に自分を生み出した者へか、それともフラスコの中から見詰めていた決して自分を受け入れない世界に対してだったのか。

「お粗末だな、こんな提案では話にならん!」
ばさりと手渡された書類を机に投げ出して黒髪の独裁者は傲岸に言い放つと後も見ずに会議室から出ていく。
滅多に怒りを表わさない男の一喝に残された幕僚達は青ざめながら必死に次の案の検討を始めた。

「あーあ、あれじゃ皆徹夜で会議ッスよ。あんたももうちょっと加減してやればいいのに」
執務室へ戻った独裁者に金髪の護衛官がそれまで抑えていた笑い声を漏らすと
「怠け者にはたまには鞭も必要さ、ハボック」
さらりと返す男の顔には確かにさっきの怒りの欠片もない。その強引な手法で今の椅子を掴んだ男はしかし滅多に怒りを露にする事はなかった。特に部下の前では。
「第一あれぐらいで青ざめてたら私の部下など勤まらん」
「滅多に怒らないから逆にビビるんですよ」
そういう護衛官も長い付き合いの中で上司が部下を本気で怒鳴ったのを見たのはほんの数回だけだ。だけど
「でもあんたが本気で怒る時はもっと静かになりますね。顔は笑ってるのになんつーか背筋が凍りつきそうな迫力で」
そうたった1度だけハボックはロイが本気で怒った時の事を知っていた。

「捨てけよ!!」
それはあの研究所での戦いの後の事。自分の足の状態を知って自分の怒りを相手にぶつけた時。そうしなければ崩れそうになる自分を支えていられなかった。このままでは捨てないでとみっともなく縋り付いてしまうのが判っていたからこそなけなしのプライドで相手を怒鳴りつけたその夜の事。

「起きろ、駄犬」
殺気にも似た気配に目を覚ませば昼間怒鳴りつけた相手がベッドの傍らに立っていた。いつの間に着替えたのか
青い軍服を纏った姿はいつものロイ・マスタングだったが暗闇にも判る程白い頬とそこに浮かんだ禍々しい程の
笑みがざわりとハボックの背筋を凍らせる。
「た・・いさ?どうしたんですか、その姿。まさかもう退院するつもりじゃ」
「そのまさかだよ、少尉。仕事が山済みでおちおち寝てもいられんからな。明日にはここを出ていく。ただその前に・・」
つっと白い手袋をはめた指がハボックの顔をなぞる。唇には笑みさえ浮かべたそれは甘い恋人の仕種に似てはいたが
「生意気にも主人に吠えた駄犬に一言言っておきたい事があってね」
首筋を抑えられたハボックは動く事さえできなかった。それだけロイの持つ怒りのオーラは凄まじい。まるで蒼い焔がその身体から揺らめいているのが見えるようでハボックは言葉を失った。
「よく覚えておきたまえ、ハボック。お前は私のものだ。その身体も心も全て・・お前はそう私に誓ったな?」
囁く声はまるで睦言のように甘く優しい。
「それを怪我ぐらいで捨ててけと?誰がそんな事許すものか」
だけど黒い瞳は凍り付く程の殺気がこもっていて
「お前は私のものだ・・誰がなんと言おうと。足が動かなくなろうが、私の傍からいなくなるなんて認めない。それくらいなら・・」
喉元を抑える指に力がこもる。震える手が何をしようとしてるかもちろんハボックにも判ったがそれを止める言葉は最後まで出なかった。

「・・あの時、お前は逆らいもしなかったな。ただ黙って私を見詰めてるだけだった。何故だ?」
長年の疑問をロイが口にするとハボックは笑って
「だって綺麗だったから」
と事も無げに言う。
「あの時のあんたの顔がすごく綺麗だったんですよ。怒りで青ざめて目付きは殺気がこもってるのに凄絶で
めちゃくちゃ色気があった。ああ、こんな顔見ながら逝くのも悪かねーなって思う程」
「馬鹿犬・・」
へらりと笑う男を殴ろうとした手はあっさり捕らえられ文句を言おうとした口は煙草の香りに塞がれる。

─だから私はお前に勝てないんだ。
小さな怒りは雪のように溶けて消えた。

                 

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