ヴァトー・ファルマンは慎重な男である。軍に入ったのもこの国で一番安定してる(決して潰れない)職場だと思ったからで、そこなら無償で学ぶ事もできたからだ。記憶力しか取り柄のない自分でも戦史編纂室とか会計係としてならやっていけると思っていたし体力も実技もダメな自分が前線に廻される事はないだろうという計算もあった。
もっとも折角の慎重な人生設計はイシュヴァールの英雄に出会った事からかなり狂ってしまったけれど─その事を不満に思った事は一度もない。
誰かに必要とされたのも初めてならこんなやりがいのある日々のある日々を(かなりハードだが)送る人生になるなんて想像もしなかった。だから自分を巻き込んでくれた黒髪の上司には本当に感謝しているのだ。
大佐殿が私を見い出してくれなかったらきっと1日中こんなところに燻っていただろうから。
埃とカビに満ちた地下の資料室、窓はないし訪れる者は殆どいないそんな空間。
だから・・まぁ、あの隅っこの固まりがなんであるかなんて考えはしないんです。
例えそれが毛布の固まりで、その端から黒い髪が見えていようと
ホークアイ中尉の顔色もまだ普通でしたし
そこから微かな寝息が聞こえてこようとも
きっともうすぐ彼が見つけにやって来るから。
慎重にその寝息を乱さない様、ファルマンは足音を忍ばせて書架の奥へ向かった。

「ハボック少尉」
ヘイゼルの瞳に浮かぶのは冷たい怒り。大部屋にホークアイ中尉が顔を出した時からもうハボックにはその命令は判っていた。
「逃げました、捕獲願います」
「イエース、マム」
誰を何をなんて聞く必要もない。がしがしと頭をかきながらハボックは新しい煙草に火を付けてのっそりと立ち上がる。
「悪いけどセントラルから急ぎの書類が入ったの、おまけの30分は無しでお願いね」
「・・はい」
いつもは見つけても30分見逃してる事まで見透かされて長身の男は思わず首をすくめた。本当に鷹の目は油断ならない。
廊下に出てまるで本物の犬みたいにハボックは空気を嗅いだ。もちろん逃げた上司の行方を鼻で捜せる程彼の嗅覚が発達してる訳ではない。でもこれは癖みたいなものだし、その時の天気と気温は重要な手掛かりになる。
うーん、気温は15度ぐらい、風は冷たくて湿気があるし空は曇ってる・・こういう時は室内だな。うん多分書庫。
いわゆる東方司令部七不思議の一つに入っていると評判のハボックの対ロイ専用探査能力は意外と単純なものだ。外におやつを買いに行くとかブラックハヤテと遊ぶとか何か目的のあるサボリ以外、ロイの行く先は猫と同じで自分が快適と感じる所(ただその基準がイマイチ判りずらいだけで)と決まっている。もっともその方法を聞いて他の人間がロイを捜そうとしても上手くいった試しがないからやはりこれは忠犬の超感覚といえるだろう。
「見ーっけ」
その超感覚のおかげだろうか。ハボックが探し物を発見したのは3ケ所程心あたりを回ったところだった。

カビ臭い匂いに古い革表紙と紙魚の食った紙の独特の香り。湿った空気は澱んでもうずっと取り替えられていないからそこはまるで時間すら止まったような雰囲気がある。正直普通の人なら決して長居したいと思わないその空間もロイにとっては安息の世界だ。密かに持ち込んだキャンプ用の毛布にくるまり焔の錬金術師は一時の忘却に身をゆだねる。
・・・来たな。
もっともいつもそんな熟睡してる訳ではないのだ。一応実戦を経験した軍人、傍に人の気配が意識は嫌でも浮上するが
この煙草の匂いはハボックか・・ならあと30分は大丈夫だ。
起こしに来たのが自分に甘い大型犬と知ってロイは惰眠の続行を決め込んだ。
「あーあ、もうよく寝てるわ」
密かにそっと近づく気配。もうすっかり馴れたそれはロイにはお馴染みのものだ。
そうやってお前はいつもすぐには起こさないものな。私が起きてるのも知らず、必ずそこで30分は見逃してくれるんだ。
相手の甘さにつけ込んだロイがさてもう一寝入りと意識を緩めた時ふっと苦い香りが強くなる。
「つまんねぇなぁ、こんな毛布に潜り込んでちゃ寝顔が見えない」
・・寝顔?お前そんなもの見たいのか?っていうか接近しすぎじゃないか、これ。
目をつぶってるのにそれと判るきつい煙草の匂いに静かな息遣い。明らかに直ぐ近くにあるハボックの気配にロイの心臓は動悸を速めそれが相手に聞こえるんじゃないかと焦れば余計にスピードは早まる。こんなことならさっさと起きておけば良かったと思ってももう遅い。
「寝てる時の大佐ってほんと可愛いんだけどなぁ」
可愛い?もうすぐ三十路の男の寝顔がどうすれば可愛く見えるんだ!下らん戯言ほざいてないでさっさと起こさんか、この駄犬〜。
そうやって必死に心の中で喚こうと相手に聞こえる訳もない。それまでレディ達に囁いていたような言葉が自分に向かって呟かれるのがこんなにいたたまれなくなるとはとロイは必死で叫びたくなる自分を抑える。こんな状況ではとても自分から目を開けられないが
「天使の様な寝顔ってああいうのだよな」
そっと耳元で囁かれれば
ぎゃ〜
ぞわわっつと背筋に寒気が走って
「何が天使だ、いい加減にせんか!この駄犬!」
ばっと毛布を剥ぎ取って怒鳴りつければそこにあるのは恋に酔った男ではなく悪戯が成功した子供の顔。煙草を銜えた口はしてやったりとニンマリ笑っていて
「くくっつ、狸寝入りは狡いッスよー、大佐」
「お前気が付いて・・」
「耳が赤くなるのちゃんと見えてましたからね。大体俺がおまけするの見越して起きないなんてひどいッスよ〜後でホークアイ中尉に睨まれるの俺なんだから!」
「ふん、主の利益を優先するのが犬の役目だろうが。ともかく後30分見逃せ少尉」
赤くなった頬を隠すようにロイはまた毛布に潜ろうとすると逞しい腕がそうはさせじと毛布を奪い取る。
「ダメです!締めきり明日の急ぎの書類が入りました!すぐにかかんなきゃ今日中に帰しませんとホークアイ中尉からの伝言です」
帰れないではなく帰しません。その言葉に籠った冷たい怒りにロイもようやく事態の重さを悟ったようで
「仕方ない、頑張るとするか。お前も手伝えよ、ハボック」
「アイ・サー」
もう毛布には目もくれずさっさとカビ臭い書庫を後にした。その後ろを尻尾を振る大型犬のように金髪の少尉が後を追い残ったのは静かに舞い散るホコリと
「えーっと」
2つ向こうの書架の所で資料を捜していた細目の准尉だけだった。

ヴァトー・ファルマンの頭の中は広大な書庫に似てどんな情報も分類整理されて記憶されている。だから必要な情報がすぐに取りだせる訳だがたった今目撃した光景をどう分類するべきか─滅多にない事だが優秀な頭脳の持ち主は考えあぐねた。
大佐がさぼって寝ていた所をハボック少尉が起こしに来た・・はたから見ればいつもの日常風景なんですけどねぇ。
もちろんファルマンは2人の会話に聞き耳をたてていたわけではない。ただ彼は耳が良かった。おまけに非力な草食動物が情報を武器にするように無意識に周囲の会話を記憶してしまうのは彼の癖でもあったので。
天使だとか寝顔がかわいいとか・・どうも普通の上司と部下の会話には相応しくないようですが。
ハボックが大佐を起こしにくる事は珍しい事ではない。ファルマンも何度も見てきた事だ。
いつもだったらハボック少尉は大佐を見つけると満足そうに頷いて・・それから少しの間そこにいて・・それからまたどこかに行ってしまうんでしたよねぇ。
それは激務の続く上司へのハボック少尉なりのささやかな思い遣りだとファルマンは解釈している。だから厳しい鷹の目にも告げ口するつもりはさらさらない。それだけハボック少尉はマスタング大佐を尊敬し大事に思っているのだろうと思っていた。
だからこれまでの2人はよくできた部下と上司の関係─そう分類できたのだけれど。
部下の言葉に赤面する上司とか、上司の寝顔を可愛いと表現する部下とか、どうも普通の上司と部下の関係からは逸脱してるような会話ですね。
はてさてこれは一体どう分類すべきか─ほんの少しそこで細目の准尉は視線を中空に彷徨わせて
まぁ結論を出すには情報が少な過ぎます。もう少し経過を観察して結論を出しましょう。
過った分類は混乱の元になる。慎重な男はついさっき見た光景に保留のレッテルを貼って脳内書庫にしまい込むと作業をそれまでの作業を再開した。

ヴァトー・ファルマンは慎重な男だ。だから確信がもてない事に関しては沈黙を守るのを信条としている。

意外にファルマンは軍内の人間関係とか正確に把握してそう(笑)

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