忠犬


「忠犬ハチ公というのを知っているかね、ハボック」背中の荷物が何やら言っているが、荷物と会話する気がない彼は銜えた煙草からぷかりと煙りを吐き出す。「毎日主人を駅まで迎えに来ていたとても忠実な犬なんだ。」返事がないのに背中の荷物は話を続ける。標準体重よりやや軽めの荷物を肩に背負うジャン・ハボック少尉は東方司令部のロイ・マスタング大佐の執務室に捕獲した荷物を届けるという任務を遂行中で、これは本日2度目の事である。いい加減にしてくれと口には出さずに嘆くハボックを尻目に荷物の話は終わらない。「ある日どうわけだか主人が帰ってこなくなってしまってね。それでもその犬は毎日駅で主人を待っていたんだ。そしてとうとうそのまま駅で死んでしまったんだ。周囲の人はその犬の忠実さを褒めたたえ、銅像を作って長く記念にしたそうだ。」
ああそうですか、それは悲しいお話で。でもそれがこの状況と一体なんの関係があるんですか。言葉にせずに反論したのを聞いたみたいにここぞとばかりに荷物ーロイ・マスタング大佐は言った。
「これが忠犬というものではないかね?少尉!」
「だからあんたは何が言いたいいんです!」執務室のドアを開け逃げんなとばかりに椅子に荷物を座らせたハボックは思わず叫んだ。「もうちょっと静かに下ろしたまえハボック。だからお前は私の犬だろう?」
人の事を平気で犬呼ばわりする上司に反論する気力は残っていない。ともかく話を聞いてそれから机の上の書類の山を片付けさせないとホークアイ中尉の怒りはこちらにも飛び火する。
「へーへー確かに俺は大佐の犬ですがね。それがその話と何の関係があるんスか?大体誰から聞いたんですその話。」「ファルマンだよ。」ああやっぱり。東方一博識な男はその知識と同じくらいいらん話も知っている。そしてそれに一々反応するのもこの人だ。この間も7月7日は七夕という遠距離恋愛中のカップルがデートする日で、願い事を書いた紙を木に吊るしておけば叶うというのを無理矢理部下に実行させようとして中尉に大目玉をくらっていたのにまだ懲りないのか。
「帰らぬ主人を信じじっとその帰りを待ち続ける。これが忠犬の鏡というものだ。お前みたいにちょっと息抜に出たのを大騒ぎして捜すなんて駄犬のすることだ。」
・・・そーゆーオチかい。大体今ちょっとって言ったかこの無能、今日は2度も脱走した癖に。机の上の書類に目も呉れないでふんぞり返る上司に思わず禁句が出そうになった時
「いいえハボック少尉は駄犬ではありません。逃亡した人間を捕まえる立派な猟犬です。大佐」
真夏の部屋を一瞬で凍り付かせるホークアイ中尉の声が響いた。
「お戻りをお待ちしてました。大佐。セントラルより追加の書類が届きましたのでお持ちしました。ちなみに締め切りは明日です。」あっという間に倍になった書類に言葉もない大佐を無視して金髪の美女は傍らの猟犬に微笑みかける。
「これからもよろしく頼むわね、少尉」もちろんYES以外の返事はない。

「ファルマン頼むからあんまり大佐に変な事教えんなよ。あの人のリアクションは常人と懸け離れてんだから。」執務室の冷戦を逃げ出してやっと自分の机についたハボックはとりあえずの一本に火をつける。「どっかの犬を見習ってあんまり捜しにくんなだとさ。」「あーあの話ですか。確かに随分興味を持っておられましたね。」「大体飼い主が帰ってこないってそれ捨てられたんじゃないの?ひどい話じゃン。」「いやそうではありません。飼い主は仕事先で急死したんです。」「へ?」意外な話に書類を繰る手が止まる。「確か仕事先で飼い主は病気で死んだんです。それでその後別の人間に飼われても、死ぬまで主人が使っていた駅に迎えに行き続けたそうですよ。」「ああまあ、そりゃ見上げた忠犬だ。でも主人の死を知らないっていうのも可哀想だな。」「まあ忠犬の話はいろいろありますね。熊に襲われた主人を助けた犬とか・・」「頼むからそんな話大佐にしてくれるな、ファルマン」熊に追い掛けられる自分を想像して思わず蒼くなるハボックである。


数日後、報告書にサインを貰おうと執務室を訪れたハボックを迎えたのは机に積もった書類の山と空の椅子だった。
「だーもうやってらんねぇ!」いい加減にしろとばかりに机の上に報告書を叩き付けて、備え付けのソファにどっかり座り込む。いっそ本当にほっぽっておこうか。大佐だって自分の仕事は把握してるだろうし、その気になれば人の何倍ものスピードで仕事できる人なのだ。ただやろうとしないだけで、最後には残業になると解っているのにこうも逃げ出すのは何故なんだろう。イライラと吐き出す煙りの向こうは雨模様で、本格的に無能決定なのに一体御主人様は何処に?ふいに数日前のファルマンとの会話が浮かんだ。『その犬は主人の死を知らなかったのです。』
脳裏に一つの光景が浮ぶ。何処かの駅の改札、行き交う人々、改札の方をじっと見ている薄汚れた犬。きっと次の列車には御主人様が乗っていると信じきった瞳。
「まったくあの御主人様ときたら!」我侭で傍若無人で勝手に人の事を犬扱いする。それでもーそれでも離れられない。思わず立ち上がるハボックに「行ってくれる?少尉」いつからいたのか扉の所にホークアイ中尉が立っていた。
「かれこれ1時間は経ってるわ。そろそろ戻って頂かないとまた残業になってしまう。捜しにいってくれる?あなたの忍耐力が尽きてないなら。」「あー忍耐力ならとっくに尽きてるような気がするんスけど。でもなんで大佐はこんな事すんでしょね。結局は自分がやるしかないって解ってるのに」「そうね、嫌がらせにしょうもない仕事を廻すセントラルに対するストレスが半分、後は確かめたいのかもね」
鷹の目を持つ美女は冷静に上司の気持ちを見抜く。
「お気に入りの忠犬がちゃんと自分を迎えに来てくれるか」「中尉まで犬扱いスか・・」
優秀な副官は狗の扱いも心得ていておいしい餌を投げる。「あら部下は沢山いるけど『お気に入りの忠犬』はたった1人よ。お迎えを待っているのは大佐の方だと思うわ。」「そーすか?なんか信じられないケドともかく俺捜しにいって来ます!」尻尾を振って駆け出す猟犬を見送りながらホークアイ中尉はそっとタメ息をついた。
まったく手の掛かる犬と御主人だ。もっとお互いにコミュニケーションをとったらいいのにと。

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