逃げろ


逃げろ世界の果てまででも

その人の形をした災厄がイーストシティを治める東方司令部を襲ったのはある麗らかな春の日の事だった。
名実共にそこの長となったロイ・マスタング大佐(半年先には准将になる事が決定済み)は懸案だったイシュヴァ−ル人の帰還法案をなんとか議会に承認させ昨日セントラルから戻ったばかり。議事での終わる事のない質議応答に全て答え及び腰の議員達の尻を有無を言わせない迫力の笑顔で蹴り飛ばしようやくもぎ取った成果に満足しつつ黒髪の大佐はうとうとと束の間の凪を満喫していた。今日の天気の様にぼんやりと霞のかかった頭の中で考えていたのはこれからの予定─もちろん仕事ではなくプライベートの方だ。3ヶ月程前にやっと再訓練を終え実力で護衛役のポジションに返り咲いた恋人と久方ぶりに一緒に夜を過ごせる。青臭い所が抜けて男の落ち着きが出始めた相手はロイを甘やかす事にかけては世界一だ。セントラルで疲弊した心も体もじっくり癒してくれるだろうと思えば寝顔も緩む。
・・今日は一緒に帰れるって知ってるからあいつは夕飯何を作ってくれるかな。チキンクリームコロッケだったらいいな・・ああでもパンプキンシチューも捨て難い・・
緩みついでに涎まで垂れそうな程しまりのない寝顔を晒しながらロイが本格的に夢の国に旅立とうとした時夜明けの鶏みたいにけたたましく鳴り響いたのは電話のベルだ。
「・・・マスタングだ」
机の上のペンや書類などをかきわけて慌ててとった声が不機嫌になるのは仕方ない。それでもタフな交換台の女性はセントラルのアームストロング少佐からの電話だと冷静に告げる。もちろんロイに拒否する気はない。
「ああアームストロング少佐、セントラルでは色々世話になったね・・」
眠い目をこすりながら取りあえず過日の礼を述べるロイの声を遮ったのは切迫した声
「逃げて下さい、マスタング大佐!」
「は?少佐すまないがもう一度言って・・」
「今すぐそこから逃げるのです!」
声の主をロイは良く知っている。真面目で堅物で人情深いを絵に書いたような好人物だ。人の悪い亡き親友と違って下らない冗談で人を引っ掛けようとする男ではない事はロイ自身が保証できる。だから
「何があった、少佐!アエルゴが国境を侵したか、旧軍部派のテロか!」
眠気も怠惰も一気に吹き飛ばして国軍大佐は応える。とその緊迫した空気に呼応するように執務室の外廊下の空気がざわつくのが微かに感じられた。
「お待ち下さい、まだ取次いでいないんです!」
「今呼びますからどうぞあちらで・・」
数人の乱れる足音が近づいてくるのが判る。焦った声の一人は確かに護衛の男のもの。
「すまないが少佐、後でまた連絡する」
「ちょ、ちょっと待って下さい、大佐!」
戦火をくぐり抜けてきた男の決断は早い。何が起きてるか判らないが電話の相手より迫ってくる現実の方が先だと受話器を置くとポケットから赤い紋章の入った手袋を取り出し手早くはめた。あの戦いを最後に使われてなかったそれに一抹の懐かしさを憶えながらロイはすっと息を吐く。
─さぁ何だか知らないが来るなら来い。焔の錬金術師は今だ健在だと思い知せてやる。
漆黒の瞳に剣呑な光が煌めき唇には傲慢な笑みが浮かんだ。もうドアのすぐ前まで聞こえて来た足音の主にロイがそう戦線布告したところでノックもなく蹴破れんばかりの勢いで執務室の重厚なドアが開いた。
「マスタングはいるか!」
入って来たのは同じ青い軍服を着た女性だった。金の髪を豪勢に靡かせ厚みのある唇はふっくらと柔らかそうだが氷より青い瞳がその全てを覆している。
「・・・アームストロング中将?」
怖れを知らぬ北方の氷の女王オリヴィエ・ミラ・アームストロング中将がそこには居た。背後に見えるのはサングラスの副官とブリッグスの兵らしき姿。
・・まさか彼女が?
予想もしないしかし可能性は0ではない相手の姿にロイも一瞬言葉を失う。あのクーデターを共に戦いこの国の未来のために尽す同士となった相手はしかし何より自分の理想に忠実だった。それが一致する相手ならこの上もない味方となるがひとたび自分に必要のない相手と看做せば容赦はしない冷徹な女神。
進まない改革にしびれを切らして自らが舵を取ろうと出て来た訳か・・?
多分アエルゴやドラクマの軍よりやっかいな相手の登場にじわりと冷たい汗がロイの背に涌く。ぎゅっと白い手袋をはめた手を握りしめたところで
「待って下さい!」
仮眠用に使っている小部屋のドアが開いて銃を構えた男がロイの前に走り出た。
「ハボック?」
お前一体どうやってと問う暇もなく広い背中でロイを庇う男は不躾な訪問者の額に狙いを付けて言った。
「いくら中将閣下でも守るべき規範という物があるでしょう!いきなり兵を引き連れて東方司令部を統括するマスタング大佐の執務室に押し入る権限はありません!」
凛と響く声に
「・・・番犬風情がいっぱしの口をきく。だが貴様の出る幕はない、退け」
返ったのは身も凍るブリザードだ。強壮なブリックス兵でこれに耐えた者はいないとそれにだが金髪の大型犬は踏み止まる。
「NO,MUM.俺の任務はマスタング大佐の護衛です。大佐の安全が確保できたと認識するまで俺はここを動きません」
「ほう・・」
引かないで唸る犬に氷の瞳が薄らと笑った。それだけで一気に部屋の気温が氷点下まで下がる。一触即発の空気にロイはそっと動かない背中に呼び掛けた。
「退きたまえ、ハボック少尉」
「大佐?」
「まずは話を聞こうじゃないか。これ程慌ただしく私を訪ねてくるからにはさぞかし重要な用件なんだろう。それを聞いてからでも遅くはないよ、少尉。すぐに武器を持ち出すのは軍人の悪い癖だ」
「しかし大佐・・」
どうみても平和使節に見えないそれに犬は承服しかねるとロイの前を動かない。それに
「少尉、退きなさい」
柔らかいが鋼の声が服従を促すと逞しい背中は渋々と横に退きロイの視界が開けた。
「一応の躾はできてるようだな」
「私のいう事しか聞かないようにしていますので。さぁオリヴィエこれで邪魔はいなくなった。いい加減この物騒な訪問の意図を教えて頂けませんか?」
胡散臭い笑顔でわざと名前で呼ぶ男の鼻先にすらりと突き付けられたのは氷の刃の切っ先。横で身構えるハボックを手で制して目線で先を促せば
「よかろう。用件は一つだロイ・マスタング大佐─私と結婚しろ」
刃先を収めぬまま氷の女王は冷徹にそう言った。

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