シュレディンガーの犬

ある時は気にも掛らないのに居なくなって始めてその存在を主張するもの。
例えばペンのインク、例えば洗面所の電球、例えば−金色の大型犬

「じゃあこれもついでに頼む。」
晴れやかな声と共に積み上げられた書類の束に逆らう気力も失せた声が情けなく応えた。
「大佐−何度も言ってますけど俺は要人警護の特殊訓練のためにダブリスに行くンスよ。遊びに行くわけじゃありません。」
「もちろん遊びじゃないさ、ハボック。せいぜい扱かれてくるといい。そのついでに南方司令部に行ってこの書類を提出し、サインを貰って来るのだって立派な軍の仕事だよ。」
「そりゃそーすけどね、大佐。思いきり締きり破った書類を差し出す俺の身にもなって下さい。何で郵送にしないんです。」
「それはこちらの誠意も見せないとな。書類が遅れたのは不可抗力だが、こうしてわざわざ届けに来たと言えば多少はあちらも怒りを収めるだろう?」
「あんたの昼寝のどこが不可抗力なんです!」
確かに部下にとっては避けようのない厄災だが。
思いきり上げた抗議の叫びにも片頬に笑みを浮かべた我侭上司は毛程も動ぜず、最後通牒を突き付ける。
「上官命令だよ、少尉。無駄な抵抗は止めて素直に従い給え。」
にーっこり。
「YES,SIR・・・」
こうして打ひしがれた犬は尻尾を垂らしてとぼとぼと執務室を後にしようとした。

「ああちょっと待ち給えハボック少尉。これを。」
だめ押しをする様な上官の声に逆らう気力もなくしたハボックの垂れ目の目に写った物は、上司の手に握られた白い封筒。中に入っているのはどうも紙幣らしく
・・・もしかして出張手当て?それとも交際費?人の出張に2つも3つも余計な仕事を上乗せして下さったおわびとか。
と思ってしまったハボックはまだまだロイ・マスタングとう言う人物を理解していなかった。
「これを持ってダブリスの古書店に行ってくれ。場所はこちらのメモにある。捜してた本がようやく見つかったんだが古狸の店主め早い者勝ちと言い出した。まだ他の錬金術師には知られていないが、ダブリスには腕の良い錬金術師が居ると聞く。うかうかしてたら持ってかれるからな。」
甘かった。こーいう人だよ。期待した俺が浅はかだった。
「・・たーいさ、これの何処が軍務です・・。」
「軍務ではないな。あくまで私用だ。はっきり言って職権乱用だよ、ハボック。」
「うっわーここまではっきり言われると清々しいっスね、大佐。まるで高原の風みたい。」
温い笑みを浮かべて言われる皮肉も思いきり上滑りして
「そうかね。実は先月同じ本を手に入れるはずだったんだが、支払い用におろした金を誰かさんに飲まれてしまってね。次の日は銀行が休みだったし、慌てて2日後にいったらもう他の錬金術師の手に渡っていた。あれは誰のせいだったかなぁ、少尉?」
童話にでて来る猫そっくりの胡散臭い笑みを浮かべて問う黒い瞳は獲物をいたぶる肉食獣とそっくりだった。
「あんたまだ根に持ってたんスか?しつこいなー第一アレ俺だけのせいじゃないッスよ!」
「やかましい!楽しみにしていた本が手に入らなくなった時の苦しみがお前にわかるか!しかも貴重な掘り出し物。今度こそお前が責任とって手に入れてくるんだ、判ったな少尉。」
「・・・アイ・サー。判りました、マスタング大佐。必ず任務は遂行します。では、失礼します。」
これ以上上司が我侭のネタを思い付かない内に逃げないと不味い。野生の本能の警告に従ってハボックは何も
言い返さず素直に封筒を受け取って部屋を退出した。
1ヶ月後に簡単に見つかるならそれ程貴重な本とは言えないんじゃないかなぁ
と思いながら。

「・・・大佐その件は我々皆が同罪のはずです。ハボック少尉にばかり責めを負わせるのは不公平では?」
一部始終を書類のチェックしながら見ていた金髪の副官が冷静に指摘するが正論を聞く耳はロイは持っていない。
「いいんだよ、中尉。元々あいつがうわばみなのが悪いんだから。それに訓練に行くって言い出したのはあいつなんだから。ついでの用事を言い付けたって文句は言えないはずさ。」
ああ要するに勝手に出張に出かけたのが気に入らないんですね。
核心をつく発言は胸にしまって(口にすればとことん否定する、そして仕事は遅れる。)切れ者の彼女は如才なく次の書類を手渡していく。ついでに
「そうですか、ではこれが次の締切り分です。・・ハボック少尉は、護衛としての能力を伸ばしたいんですよ。大佐のために。」
一応少尉のフォローもしておいた。いつまでも拗ねられて困るのはこっちだ。
「・・ふん、駄犬にしては見上げた性根だ。」
不機嫌そうな言い方と裏腹に顰めていた眉がゆるんでヘの字の口元が柔らかくなる。分かりやすい反応に額を押さえつつホークアイはカレンダーを見上げて少尉の不在期間を確認した。1週間この男のお守を1人でしなきゃならない自分を慰めながら。

「御自宅に着きました、マスタング大佐。」
年若い兵の緊張した声に眠気で緩みかけた頬を引き締めてロイは重々しく応えた。
「うむ、御苦労、軍曹。明日も同じ時間に迎えに来てくれ給え。」
「YES.SIR!」
車を降りてから玄関に入るまでロイの実態を知らない兵の固い視線が付いて来るから黒髪の大佐は肩の力を抜けず、思わず扉が閉まった瞬間に思いきりそこに座り込んでしまった。
「つっかれたー。あーせめて帰りの車の中くらい気を抜いていたいよ。中尉も送迎の人選なんとかしてくれないかね。」
あんなよく知らない部隊の連中使わなくても。フュリーやブレダでいいじゃないか。
ぶつぶつ愚痴りながらともかくリビングに向かう。そこには実に座り心地のいいソファがあって
「あーあ。」
上着も軍靴もあたりにほおり投げてダイビングしたロイを柔らかいクッションはしっかりと受け止めた。
派手に脱ぎ散らした衣服を纏める気も無くシャツをはだけて1人愚痴る姿を見たら彼に熱を上げる東部の御婦人方は目を見張りついで失望のため息を付くだろう。(そして何割かは逃げ出す。)だがそんなことはロイの知った事ではない。
「大体ハボックがいけない。帰りの車の中で眠り込む習慣はあいつのせいなのに。」
着いたら起こしますよ、休んでて下さい。そう言われても最初は出来なかった。ロイの被った対人向けの猫は分厚くしかもすっかり馴染んだもので容易にとれるものではなかった。それなのに気が付けば送迎の短い時間の中でも熟睡できる様になっていて。
着きましたよ、大佐。起きて下さいよー。あ、すんごい涎。あんた俺以外の人間の前じゃそれ気を付けた方がいいですね。
「お前以外の誰にそんな醜態を曝せるって言うんだ。馬鹿犬。」
拗ねたような呟きは無駄に広いリビングに響き、ロイにその広さを実感させる。今まで気にした事もなかったのに。
「別にしょっちゅうあいつが出入りしてるわけじゃないのに。」
せいぜい月に2、3回。ロイが呼びつける場合とハボックが押し掛ける場合の比率は大体半分。
「いや4:6だろ。たいていあいつが呼びもしないのに押し掛けるんだ。」
なぁとクッションに同意を求めても柔らかいそれはもちろん返事もしない。ただもしソレが口をきけたとしたら返事は多分違っていただろう。
「食事の世話とか、庭の手入れとか・・。おかげで家にはすっかり煙草の臭いがついてしまった。」
いない犬はその不在によって強くその存在を主張する。
「・・それなのになんで犬小屋には気付かないんだ、あの馬鹿。」


言葉の響きがすきな「シュレディンガーの猫」からできたお話。ハボックの不在にロイが思う事。

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