春の訪れ


春宵一刻価千金 古の人はそう言って移ろう夜の香りを愛でた。

どこか柔らかな空気が満ちた春の宵、人みな寝静まった深更。街灯だけが見守る石畳に
不似合いな金属音が規則正しく響いていた。足音というには硬いその音はぼんやりした
街灯の光も届かない暗闇から近付いて来る。やがて淡い光の輪の中にその音の主の姿が
ゆっくりと姿を現わした。現れたのは大きな鎧。銀灰色の表面は街灯の光を映して鈍く
光り、頭に付いた房飾りはそのゆっくりとした歩みにあわせてゆらゆらと揺れる。
この大きさにしては静かな足音は鎧の主が気を使っているのか、それとも他の理由がある
のか。人気のない深夜の通りに現れた彼は、街灯の光に魅せられた様に歩みを止めしばし
その光に戯れる虫を見詰めた。ガス灯の淡い光がその無機質な鋼の顔につくり出す影は不
思議と切ない様な表情を写し出す。
にゃあ 小さな鳴き声と共に暗がりに二つの金色の光が灯った。振り向いた暗闇からする
りとしなやかな影が抜け出してもう一度にゃあと立ちすくむ鎧に誘いをかける。そのまま
くるりと反転して立ち去る黒猫を足音を忍ばせて鋼の影がそっと追い掛けた。ゆらゆらと
揺れる黒い尻尾が一緒においでと言っている様に見えたので。

猫には猫だけの道がある。気紛れな彼等は後を追う者の事など考えないから追跡者は道無き
道を往く羽目になる。いつのまにか迷いこんだ公園らしき茂みをかき分けて進むと急に辺り
が開けて目の前に小さな広場が現れた。
まん中には小さな噴水。その傍らにはキラキラと月の光を反射して輝く水をうっとりと見つ
める小柄な影が一つ。黒い髪に黒い瞳、黒い軍用コートをはおったその人物はゆっくりとふ
り向き優雅に夜の挨拶を送った。
「こんばんわ、アルフォンス・エルリック」
「マスタング大佐・・?」
それは彼にとっては旧知の人物だった。しかし彼の知っているロイ・マスタング大佐とは沈
着冷静・ある時にはふざけた態度をとったりもするがいわゆる大人の男というもので。アル
フォンスの考える大人と言う者はこんな夜更けにパジャマで出歩いたりはしない。これはさ
っきの猫が月の光で大佐に変身したんじゃないかしら、思わずメルヘンな発想をしてしまう
ほど月下の人物は儚げに見えた。
「どうした、こんな夜更けに子供が出歩いて。さては鋼のいびきが凄くて避難して来たのかい?」
「いえっ!そんなことありません。えーっとちょっと気晴らしに散歩してて、そしたら猫が」
「猫?ああ、あそこに居る奴か。猫の道案内とはまた風流なものだ。まぁ突っ立ってないで座
り給え。」
道案内を終えた猫は尻尾を揺らしながら茂みに消える。それを見送りながらアルは噴水のふち
に腰掛けた。
「大佐こそこんなトコに1人でどうしたんですか?」
「なに月があんまり見事なものでね。それにここは私の裏庭みたいなものだ。ほらあっちが私の家。うちの裏庭から直接ここに出られるんだ。君達は正面からしか入ったこと無いから知らなかっただろう?」
指差す方向に見える蔦の絡まった古びた屋敷は確かに見覚えのあるものでアルは自分が結構な距離を歩いてきた事を知った。
「確か君達の泊まってる軍用ホテルはずっと向こうだろう?なんでこんな夜更けに1人で夜の街を彷徨っている。眠りの無い夜が辛いのかい。」
アルの体は眠らない、食事もしない、疲れない。でも知っている人は大抵それを見て見ない振りをする。それは確かにアルを思っての事だが時にはそれが辛い時もあった。
「そこまではっきり言うの大佐ぐらいですね・・」
「はぐらかしても事実は変らん。私は君達兄弟をオブラートに包む様な扱いはしないよ。」
きっぱりと宣言する男のは確かに大人の表情で、さっきまでの儚さはやはり月のまやかしだとアルは知る。
「・・辛いとかそういうんじゃないんです。ただ時折眠れない夜にベッドに形だけ横たわってるとそのままホントに動けなくなりそうで・・朝がきてももう本当の鎧になってしまって声も出なくなってるんじゃないか・・心ももう何も感じず感情もなくなってしまうんじゃないか・・そんな気が時折襲って来て、いてもたってもいられなくなってこうして外に出てしまうんです。」
そんな苦しみの滲んだ震える声に
「鋼のを起こせば良い。幾らでも君を安心させてくれるよ。」
返ったのはそんな返事。
「そんな事できません!只でさえ兄さんは疲れているんです、いつも旅の事や僕の事ばかり考えて休める時は夜くらいなのに。今日だって御飯食べたらすぐ寝てしまって・・」
「確かに鋼のはよく居眠りしてるな。そうだちょっとついておいで、アルフォンス・エルリック」
激高する声を迎えたのは柔らかな微笑み。その笑みを浮かべたまま黒いコートを翻して黒髪の大佐は奥の茂みに向かう。その姿はまさしくさっきの猫にそっくりで、見とれたアルは慌ててその後を追った。
「うわぁ・・」
茂みの奥にその木はあった。薄紅色の小さな花を枝一杯に咲かせたった1本ながら見る者を酔わせる美しさをその身に纏う。それ程大きくは無いのに闇の中に灯火を灯したように淡い光を放つ様は美しいというより神秘的な感じさえした。今が盛りなのか時折風も無いのに散る薄紅の花びらは地面に美しい模様を描き、始めてみる光景にアルは言葉も無く立ちすくむ。
「SAKURAというんだ。東の国、シンよりもっと向こうの国から来たと言われる。もともイーストシティは、東からの交易から発展した街だったらしいから、その当時来た物の子孫だろう。何故こんな公園の奥に1本だけ残っているのかは解らないがね。」
「初めて見ました。本当にきれいだ。SAKURAっていうんだ。ああ兄さんにも見せてやりたいな。ウェンリイも見たら喜ぶだろうな。ここにしかないんですか、大佐」
喜びにさっきまでの憂いが嘘の様に弾む声は本当の年令に相応しい少年の声で、その様子に黒髪の大佐は微笑みながら言った。
「君なら大丈夫だよ。君はそんな体でも自分より兄の事を友達の事を一番に考える。美しいものに素直に感動する事もできる。世の中には例え普通の家族でも憎しみあったり、季節の変化に無関心だったりする人間が沢山いるのにね。そんな子がどうして心を無くしたりする。」
静かに語る声は鋼の鎧に優しく染み渡り、温もりを感じない体を暖める様に包んだ。
「眠りのない夜でも君はこの光景を闇の中に描けるだろう?あるいはリ−ゼンブールの春の緑を、そしてそうしてるうちに朝は来る。永久不変の真理を一つ教えようアルフォンス、明けない夜は存在しないんだ。」
「・・そうですね。本当にそうだ。そんなこと忘れていました、僕は」
固く強ばった何かがゆっくり解けていくのを何処か感じながらアルは鋼の手をゆっくりと開いて見つめた。かつてそこにあった血の通った白い手を思い出す様に。するとその冷たい手のひらにそっと生身の手が重ねられた。                       
「さぁ、本当に夜は遅い。もう帰り給え。きっと君の兄は君が出ていったのに気が付いて心配しているよ。」
「まさか・・」
「解るんだよ、そういう事は。・・私の家には犬が一匹いてね。ああ飼ってるんじゃ無い。野良だが時折ベッドに潜り込むふてぶてしい奴だ。そいつは私がこうやって夜出歩く時大抵目を覚ます。本人は寝た振りしてるがね。そうして私が帰って来るまで何も言わないで起きてるんだ。ベッドが冷えてるからばればれなのにね。」
「大佐が犬飼ってるとは知りませんでした。あっとそれじゃあ僕戻ります。えーとそのおやすみなさい大佐、それからありがとうございます。」

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