早熟な子供に驚いた執事は慌てて家庭教師を雇い読み書きの基礎を教えた。それは子供にとって広大な世界への扉の鍵を渡されたも同然。文字が読めれば本は読める。内容が判らなければ辞書を引けば済む事で乾いた大地に水が染み込むように柔らかい頭脳は知識を吸い込む。執事が気付いた時にはもう親子そろって書斎に閉じこもる日々があっという間に日常と化してしまったのだ。
「さすがにまずいと思ったのか村の子供を遊び相手に連れて来る事のあったが私は退屈で早々に逃げ出していたな。向こうも領主の一族だから遠慮もあるし遊ぶより質問ばかりする子供の相手は辛いだろう」
どうして空は青いの?なんでトンボの羽はこんな形してるの?外の世界も目を見張る事ばかりだったが残念ながらロイの欲求を満たしてくれる人はいなかった。
「そのうち諦めて好きなようにしてくれたっけ。錬金術に関してなら父も機嫌のいい時は相手してくれてたし」
「じゃあずっと学校も行かないで?」
「ああ7才ぐらいまでだったか・・そんな暮しがずっと続いたな。本にあきれば勝手に外に出て星や花を見たりした。常識で考えれば真っ当とはいい難い環境だったが私は満足していた。それなりに穏やかで幸福な日々だったと思う」
遠い日々を語る声に気負いも強がりもない。その表情にハボックは安易に可哀想と感じた自分を恥じた。少なくともその日々は彼に優しかったのだから。だが繭に包まれたような閉じた世界にもやがて変化の時は来る。
「暫くして父は何かの研究にのめり込むようになった。それこそ一心不乱に資料を漁り幾つもの構築式を書いては破り捨て私の相手も全くしなくなって・・そうして遂には書斎すら出入り禁止となってしまった」
何かに憑かれたように研究に没頭する男は終日書斎から出る事はなかった。声をかける事すら憚られる表情に執事も何も言えず言われるまま食事を運びロイを書斎から遠ざけた。鬼気迫る雰囲気に館の誰もが腫れ物を扱うように接し子供はその輪の外に置かれ何がおきているのか知る事もできない。書き散らされた構築式を読み解くにはまだ力が足りなかった。彼がその意味を知るのはもっとずっと後の事。
「禁忌だ。父は人体錬成を研究していたんだ」
「・・それってもしかして、その」
「錬金術師最大のタブーだ。今だ誰も成功した事が無く試みただけで罪となる。それどころかリバウンドで命を落とす者が後を絶たない程危険な術だ。それでも彼はやろうとした・・母を蘇らせるために」
それが愛だったのか錬金術師の業だったのか今もロイには判らない。記憶で見た構築式が人体錬成の物だと判ったのは随分後になってからで当時の彼は父の狂気じみた様子がただ恐ろしかっただけだ。
「それならやっぱり大佐のお父さんは奥さんを心から愛していたんですよ。そんな危険を犯してまで奥さんに会いたかったんだから。幾ら術師でも自分の術のために命をかけるなんて事しないでしょう?」
真直ぐに見つめてくる青い瞳にロイはどうしても首を横に振る事は出来ずただそうだなと小さく頷く。だが実際は自分の術のために命を落としそうになる錬金術師は大勢いるのだ。彼の師にあたる人物だってそれで命を落としたようなもの。
だけどその業の深さを目の前にいる男は多分決して理解できないだろう。ロイにできるのは話を先に進める事だけ。
「結局その無茶が祟って父は体を壊し・・ある朝書斎に倒れているのを執事が発見した。すぐに医者を呼んだがもう手後れだったんだ」
その日は朝から白い雪が降っていた。ロイは寒さに暖炉の傍から離れずその焔の美しさにずっと見入っていた。一時も静止する事のない紅い薄布の乱舞。それに触れたくて何度も小さな手を伸ばし熱の障壁に阻まれて手を引っ込めるのを繰り返して諦めたように火蜥蜴の本に戻った。
「そういえばその日は私にとって別の意味で記憶に残る日だったな。指を焦がすのにいい加減焔を掴むのは無理だと思い知った時天啓のように閃いたんだ。この本に書かれているのは焔を自在に操る術だと」
それまではただ言葉の意味を知るだけで精一杯だった。まだ初歩の初歩程度の知識しかなかった子供には本の内容を理解することなどできなかった。だがその時始めて火蜥蜴の紋章が背負う意味がまるで稲妻の様に小さな頭の中に閃いたのだ。その瞬間黒い瞳には本の火蜥蜴が本当のサラマンダーのように揺らめくのが見えた。
興奮に我を忘れて父親の元に駆け込んだ子供が見たのは一面に散った白い紙と床に描かれた書きかけの紅い錬成陣。そうしてその中心に横たわる男の姿だった。無意識の内に出た悲鳴にすぐに執事が駆け付け子供はメイドの手に委ねかれる。何が起ったか何も知らされぬまま無理矢理ベッドに入れられ朝起きた時用意されたのは黒い服だった。
「小さいあんたに誰も付いてなかったんですか?父親が倒れたのもちゃんと話さず?」
憤慨する男にロイはきょとんとして皆は色々忙しかったから仕方ないだろうと言う。たまらずハボックは立ち上がると怪訝な顔をする恋人を抱き締めた。
「おいハボ、何をいきなり」
「そういう時は!誰かがずっとこうしていなきゃいけなかったんですよ!小さいあんたをこうやって暖めてあげなきゃいけなかったんです。俺が傍にいたなら絶対そうしてました!」
ぎゅっとその時の分を取りかえすように抱き締めてくる男の胸の中でロイはあの夜の事を思い起こす。冷えた羽根布団は中々暖まらず心細さに幼い自分がしがみついていたのはあの火蜥蜴の本だけだった。もしもあの時─
「・・・判ったからちょっと腕緩めろ、駄犬、苦しい」
想像しても仕方ないとロイは頭を振ってポンポンと宥めるように男の背を叩く。逆上から我に返ったハボックは慌てて腕の拘束を解いた。
「すっすいません!俺何とういうか・・その」
「ハボ」
わたわた言い訳する男の口に冷たい唇がそっと触れる。それだけでぴたりと動きが止まった男にロイは
「ありがとう」
と言った。そうして硬直した男を自分の隣にくるように促す。触れあった体からお互いの体温が混ざりあう感覚にハボックはまた沸き上がる衝動を何とか抑えロイの顔に視線を戻した。
「確かにお前みたいな人が傍にいたら良かったと思うが執事もメイド達も悪い人達じゃなかったよ。自分の世界に閉じこもったままの親子をそれでも懸命に世話してくれたんだ。父の葬儀の時も執事はずっと私に気を配ってくれたし将来の事を心配してくれたのも彼だった」
孤児となった子供は領主の直系のしかもただ1人の孫だ。夫が妻から相続した財産の相続人でもある彼の先行きは当然一族の間で問題になったが結局彼を引き取ったのは一族の長だった大伯父の一家。
「かなり年輩だった伯父夫婦は子供がいなかったし随分前から養子の話はあったんだ。血筋としても問題ないしこれなら跡取りとして大事にされると執事は思って賛成したんだがな・・」
田舎とはいえ領主の跡取りに錬金術など不用。昔からどこの馬の骨とも知れない錬金術師の婿を苦々しく思っていた男は良い機会だとばかりに館にあった錬金術の本をロイに無断で全て処分してしまったのだ。あまりの事にロイがくってかかっても子供の我侭と一蹴し彼には普通の家庭教師と相応しい礼儀作法が押し付けられた。
「それまで勝手気侭に暮らしていたのが突然窮屈な檻に入れられたようなものだ。我慢できる訳がない。だけど子供に何ができる?食事も服も与えられる物しかないんだ。伯父にしてみればここで普通の生活に戻さないと立派な跡取りにできないと思って厳しくしたんだろうが、生憎私はそんなもの興味なかった」
それまで空気と同じだったものが突然取り上げられる。家庭教師が教える事は既に知ってる事ばかりでロイにとっては退屈極まりないものだった。水を与えられない植物が萎れるように無口になっていく子供を見かねた執事はある日そっと1個の古ぼけた革製の旅行鞄を手渡す。形見にとこれだけ取っておきました。お父上の生前の品と何冊かの本が入っています。錬金術のお勉強は大人になってからでも遅くはないでしょうから今はこれで我慢して下さい。伯父上もロイ様の事を思っての事なのですからと。
そう諭せば頭の良い子供だからきっと諦めて今の生活に馴染むと思った老執事の考えは甘かった。その子はそんな素直な子供ではなかったのだ。
鞄を渡されて数週間後子供の姿は館から忽然と消えた。

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