「君が私の研究を継いでくれないのは真に残念だよ、マスタング君」
「ドクターマクガリティ?!」
それはこの世に存在するはずのない人物の名だ。だがロイは確かにその声を聞いた。深く落ち着きのある声とゆったりとした言い方。でもロイが振り向いた先の光景は変っていない。そこにいるのはブラウンの瞳の執事だけだ。何時の間に外したのか白い手袋をとったその手は床に置かれそこから発した淡い光が部屋全体を照らし、そして
「ドクター、まさか・・うわっ」
いきなりかくんと力の抜けた膝が床に着き何が起ったのかまるで理解できぬままロイの身体は磨き上げられた木の床に崩れ落ちた。そこには光のラインが丸い紋様を描き出している。
「何を・・したんだ、君は・・」
どんな術を使ったのか、小さな穴から水がこぼれるように身体から全ての力が失われていくのをロイには止める事ができない。かろうじて残った力を振り絞って問いかければ相手は少し寂しげに笑う。その笑みにロイは見覚えがあった。
「こんな事に巻き込んでしまう事を許してくれたまえ」
かつて砂漠の地下室で見たのと同じ歪んだ笑い。
「君が私の研究を継いでくれるならこのままノーマンの中で微睡んでいるつもりだったんだが」
「まさか・・本当にドクター?」
「そう、私だよ。マスタング少・・いや大佐。Dr.ヘリオット・マクガリティだ。イシュヴァ−ル以来だったね」
半信半疑の問いに返ったのはしっかりとした声だ。落ち着き払った年齢を感じさせる言い方はさっきまでの執事とまるで違う。
「色々君に説明しなければならない事がある。何故私が生きているかとか、何故君をこんな目に遭わせなければならないかとかね。それは長い話になるし、君をこのまま床に寝かせて置くわけにもいかないだろう。だけど私がこうして表に出られる時間は短いのだ。事情はノーマンが説明するから、聞きたい事があれば彼が答えるだろう。・・・すまない。本当に心からすまないと思ってる」
それだけ言うと男はかくりと膝をつく。一体何が起きているのか判らないまま床に転がったロイは俯いて動かない男の姿を見守るしかできない。さっきまで話していたのは本当に死んだはずのドクターマクガリティなのか、それともこの執事の1人芝居なのか。だとしたらなんの為に。だけど今はそんな事より身体の自由を回復するのが先決だ。ほんの少しでも身体が動けばポケットの発火布に手が届く・・ともがくロイの腕をやんわりと押さえたのは俯いていた男だ。
「無駄な事はしない方が良いですよ、マスタング大佐」
ブラウンの瞳の中にはさっきまで消えていたあの思いつめたような光が戻り、たったそれだけの事で印象はがらりと変る。あの落ち着いた紳士然とした雰囲気は拭った様にきれいに消えていた。
「取りあえず風邪をひいたら困りますから、ベッドにお連れしましょう。貴方の身体は大事な器なんだから」
「触るな・・」
視線で威嚇するロイを軽くいなして執事は床に横たわる身体を担ぎあげるとそのまま2階の奥の部屋に運び込ぶ。そこは入るなと言われていた部屋─故人の寝室だ。
「ここは歴代当主の寝室です。しばらくここでお休み下さい。マスタング大佐。準備がすっかり整うまで」
そう言って執事はそっと肩に担いだ身体を寝台に横たえ、丁寧な仕種でシャツを緩め靴を脱がしついでにポケットから発火布を取り出す。抵抗を封じられたロイは身体を強ばらせるが相手の手付きに性的なものは感じられない。むしろうやうやしい程の丁寧さだ。
「説明をしてもらおうか、ノーマン」
泥沼に引きずり込まれるような脱力感は続いている。そのうち声も出せなくなるだろうと思いロイは必死で情報を求めた。この状況から逃れるチャンスをなんとか見つけようと。
「そうですね。貴方にはきちんと説明せよとドクターも仰った。彼の言葉に逆らうつもりはありませんが、さてどこから話せば貴方に判ってもらえるものか」
枕の具合を直し、ふわりと羽根布団を掛けた執事はちょっと考え込むように眉を顰め、そして近くにあったスツールをベ引き寄せるとそこに腰を下ろす。
「こうなった事の原因の1つはあなた方軍部にあると思います。ええ、あなた方はドクターを戦場に連れていってはいけなかったんだ。あんな心の優しい人を」
何を思い出したのか。語る相手の顔には苦渋の色がある。
「イシュヴァ−ルから帰還したドクターは死人のようでした。唯一の希望だった息子は救えず、戦場で侵した罪の記憶に夜毎苛まれて眠る事もできない。もちろん私は何が戦場であったかなんて知りません。ドクターは決して話さなかったし。だから私もドクターの心を安らかにする術を知らなかった。ただドクターが苦しんでいるのを見ている事しかできない。それがどれだけ辛かった事か。貴方には想像もできないでしょうね」
責めるような口ぶりだがロイには反論できない。彼もまた過去に苦しむほうで傍にいる人の気持ちなど想像もできないからだ。魘された自分を起こすあの金色の大型犬なら言う事もあるだろうが。
「ですがある日ドクターは悪夢から解放される方法を見つけました。全てを元に戻せば自分の罪は許されると気が付いたんです」
アメストリス軍が焼き払った大地を蘇らせ、そこに散った人々をも再生させる。そうしなければ自分は永劫の責苦に落とされると病んだ神経で白衣の紳士は思い込んだのだ。
「その日からドクターは取り憑かれた様に研究に没頭しました。私も出来うる限りお手伝いしましたし、そうする事によってある程度の安定を得られたのは幸いでした。でもそれも長くは続かない。しばらくして無理が祟って病床に臥すようになってまた元の木阿弥です」
研究を続けられずただ寝台に倒れたままの日々。意識ははっきりしていたから余計に焦躁と罪悪感が病人を苛んだ。このまま死んでも魂の安息はきっと得られないだろう。そう訴える主人に忠実な執事は何か手は無いかと必死に考え
「見つけたんです。ドクターの願いを叶える方法を」
そこで執事は晴れやかに笑う。
「ドクターの魂を誰か若くて優秀な頭脳を持つ人物に移して研究を完成させれば良いと、ここに」
ついと伸ばした手はロイの心臓の上に置かれた。心臓─ハート─魂があると言われる場所。
「ドクターの魂を移せれば彼は研究を続けられる。そして完成すればもう過去に囚われることも無いんだ。そうでしょう?マスタング大佐。それが可能な事だと私は知っていましたからね。『操魂の錬金術師』の話はドクターから聞いていた。病に倒れてから切れ切れに当時の話をうわ言のように話すのを聞いていましたからね。何度かドクターの名前で彼に手紙を書いて教えを乞いました。その都度断られたけど最後には私の願いを聞き届けてくれましたよ。彼のような達観した錬金術師でも死ぬのは恐いらしい」
にこやかに語る男の表情はまるで変らない。それだけにロイにはその術師の運命に想像がついた。
「彼をどうした」
「衰えてた心臓はちょっと刺激を与えたら簡単に止まりましたよ」
これで、と広げた掌には一面に細かい紋様が彫り込まれている。
「後は器になる人物を捜すだけでしたがこれが中々難しい。研究を続けるためにも優秀な頭脳が必要だし、若さも外せない。研究が完成するまでこの先何年かかるかドクターにも予測はできないのだから。だけど私にはそんな人物に心当たりも無いし錬金術師に知り合いもいなかった。でもドクターの容態が急速に悪くなっていったんです。もう猶予は無い。仮の処置として私はドクターの魂を自分に移しました」
おもむろに執事は襟元のカラーを緩め白いシャツのボタンを外す。露になった左の胸の辺りには赤い錬成陣がくっきりと刻み込まれていた。
黒い瞳が僅かに見開かれる。ロイはそれに良く似た錬成陣を一度だけ見た事があったから。


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