「にげ・・逃げられませんよ、マスタング、大佐」
まだ生命を失っていない翼が何とか羽ばたこうともがく。だがその嘴から洩れたのは鳥の鳴声では無く人の言葉だ。
「すぐに私のキメラ達が追いつきます。彼等の牙は鋭く獰猛だ。あなたやあなたを助けた人間だってひとたまりもない」
抑揚もなく、オウム特有の甲高い調子で告げられるのは降伏の勧告。
「やかましいぞ、鳥の癖に」
とどめとばかりに頭に銃弾を打ち込もうとするハボックの手をロイは止めた。多分これはメッセンジャーなのだ。あの執事の言葉をテープレコーダーのように記憶し伝えるために作られた合成獣。
ならばメッセージは聞いておいたほうがいいだろう─例えそれが脅迫でも。
「今ならあなたを助けた人間の命は助けてあげます。あなたをそこに置いて逃げれば追いはしません。でもこれ以上抵抗するなら容赦しませんよ。血に飢えたキメラだ。マスタング大佐も無傷ではいられないかも。まぁどうせ後で私が治しますがね、いらぬ苦痛を味わうのはあなたですよ・・よく考えた方が良い、どうせあなた方は逃げられない。にげられない。にげられ、にげ、に・・」
「言いたい事はそれだけかよ」
壊れた機械みたいに同じ言葉を繰り返す嘴をハボックの弾丸が容赦なく打ち砕く。そのまま彼は何事も無かったように歩き出した。
「このまま川を昇っていけば近道になります。ちっと道が悪いけど我慢して下さいね」
おい、ちょっと待て、ハボック!
あのメッセージを聞かなかったのかと背中を叩くロイに向けられたのはいつもと同じ笑み
「あんたを置いて逃げるなんて世界がひっくり返ったって出来ませんよ。あんな脅しで退くと思われたなんて俺もなめられたもんだ」
しかし、このままじゃ私は足でまといだ。錬金術も使えないのにキメラ相手にどうやって戦う?
背中に戦えないロイを背負ったままで複数のキメラを相手にする。それは確かに条件の悪い賭けだ。ハボックの今の装備ならなおの事。そしてそれを証明するように今度は複数の獣の声が崖の上から呼応する。だけど
「負けません」
言い切った顔に迷いは無い。そのままハボックは猛然と走り始めた。

「時間がないから大した事できないけど我慢して下さい」
しばらく河原を走ったハボックがロイを背負って辿り着いたのは小さな岩穴だ。川幅はここに来てかなり狭くなり周囲には大きな岩が幾つも転がって隠れるには絶好の場所。その中の1つにハボックはロイをそっと横たえるとホルスターから銃を引き抜き力無い手にしっかりと握りしめさせる。
何をするつもりだ、ハボック。
離れようとする手をロイは止めた。もちろん彼はハボックがここに自分を置き去りにするとは露程も考えない。それくらいの信頼関係はできている。心配なのはこの男がロイのためにとんでもない無茶をする事だ。
「面倒臭いから一気に片をつけて来ますよ。なにたいして時間はとりませんから安心して。あ、これ水とチョコバーお腹すいたらこれでも食べて待っていて下さいね」
腰のポーチから小さなボトルと携帯食料を出してロイの傍らに置いた男の顔は笑っている。だけどこの笑みが曲者だって事最近になってロイは気が付いた。ハボックは何かを吹っ切ると笑うのだ。何時だったかロイがテロリストに狙撃されて軽症を負った時も笑って「必ず犯人は捕まえますから。大佐はゆっくり休んでいて下さい」そう言った後幾つかのアジトを急襲見事犯人を確保したがその容赦ない戦いぶりに彼の部下は驚きを隠せなかったと言う。
何するつもりか知らんが無茶はよせ、ハボック。私はあいつに捕まっても殺される事はないんだから、ここは私を置いて行く方が助かる可能性が高いぞ!
2人の命を助けるだけならその手もある。ここでハボックが退いて後から体勢を整えてロイを奪還するのだ。命だけを助けるならそれもあるだろう。だけど救出された人物はもうハボックの知っているロイ・マスタングではないのだ。
だけど魂の移植なんてそう簡単にできるものか。あんなものあの男の妄想かも知れない。ドクターの振りをして私を騙したか、あるいは狂気からそう思い込んでいるだけかも。ともかく私は捕まっても命は保証される、そうだここでハボックが無茶をする事なんてない、なあハボック。
『置いていけ、逃げろ』
革手袋をはめた掌に綴ろうとした文章は最後まで書けなかった。最初の2、3文字でその手がさっと引っ込められたからだ。
「ダメですよ、大佐」
苦笑するハボックにロイは何とか伝えたかった。敵が欲しいのはロイの生きた身体だから、自分は殺されはしない事。2人助かるのはその方が戦略的にも有効な事。もっともロイの心を支配してたのはそんな計算じゃなかったけれど。
「俺を信用できますか、大佐」
再び言葉を綴ろうとする手をそっと握り込んで青い瞳がロイを覗き込む。そこには何処までも蒼い空が広がっていて何かが揺れていたロイの心に静かに染みる。
そうしてこっくりと黒い頭が頷いた。
「俺は決して自棄になってる訳じゃない。ちゃんと勝算があって戦うんです。それは信じて」
さらりと汗で額に貼り付いた黒髪を銃胼胝のできた指がはらう。
「南部の時と同じですね。あの時俺はまだ若造だった。あんたの力がなけりゃ守りきる事も出来なかった。でも今は違う。少しはましになったし、強くもなった。それにあんたが信じてくれれば俺はもっとずっと強くなる。・・必ず取りに来るからからこれ預かってて下さいね」
これ担保に置いていくからと手に渡されたのは愛用のライター。
ハボック
目を見張るロイの頬をそっと包んで蒼い瞳が寄せられる。きつくなった煙草の香りに思わず目を閉じたロイの唇を掠めて温かく湿った感触が頬に触れた。
ハボ。
咎める目付きに男はへらりと笑って
「初めてのキスなのにあんたが動けないんじゃ卑怯でしょう?約束するよ、続きは戻ってやるから待ってね」
へたくそなウィンク1つ残してハボックの姿は岩穴から消えた。すぐに入り口は木の枝に覆われて薄ぼんやりと闇の中にロイは1人取り残される。微かな紫煙の香りと頬の温かな感触と共に。

馬鹿ハボ・・忘れたのか。キスは南部でとっくに経験済みだろうが、この駄犬。

岩穴から反対の岩場を男は全速力で逃げる。背後にはもう獣の鳴声はしないが気配や水音は聞こえ、追っ手の数がけして
少なくは無い事を鋭敏な耳に伝えてくるが脅えた様子は微塵もない。
「そうだ、こっちだ。お前らの相手は俺だよ」
むしろ追っかけっこを楽しむようなやんちゃな表情がそこにはあった。もっともこの遊戯は命がけで逃げる男の腕には細くえぐった傷がある。そこから流れる濃密な血の匂いが追っ手を引き寄せる餌の役目をしていた。あの岩穴から離れた後でハボックがわざとナイフで傷つけたのだ。血の匂いに獣は惑わされやすい。それが例え人の手で合成されたモノでも本能には逆らえないはずだ。
「ついてきやがれ、何頭でも。まとめて俺が面倒見てやる。大佐には指1本触れさせねぇ」
足場の悪い岩場でも男のスピードに変わりは無い。だってこのあたりは子供の頃何度も探険に来ていたし男は人より夜目が効く。
それなのにハボックの足は何故か川幅が狭くなってゆく方に向かっている。辺りは切り立った崖のような岩場で登って逃げるのも困難なところに。
「うわっつ!」
背後の岩から灰色の影がハボック目がけて飛び掛かって来た。鋭い牙が喉元に迫ってくるのを寸前でかわし、両手に握った銃が火を吹く。甲高い悲鳴を上げて地に倒れたのは大きな灰色の狼のような生き物だった。ただしサーベルのような不自然な程長い牙を持った。
「なんつー悪趣味だよ、まったく」
避けきれなかったのか肩の服が切り裂かれそこから新たに血の匂いが漂い始める。それに興奮したように次の追っ手の気配が近づく。
だけどハボックは笑った。追っ手の獣と同じくらい獰猛な笑みで
「一匹残らずついて来やがれ。地獄まで」
辺りに血の匂いを振りまきながらハボックは再び走り始める。川の奥へ。逃げ場のない袋小路へ。




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