聴診器を片手に部屋に入って来たのは初老の男だ。足下には当然といった顔でさっきまでロイの側にいたあの茶色の大きな犬が控えていてる。草臥れた白衣を纏ってはいるが背筋はぴんとしてるし体格もそこそこ良いから
「ひでーな、ラックレーの爺さん!」
皺の寄った目尻と短く刈り上げた頭が真っ白でなければ『爺さん』呼ばわりはないだろう。本人もそう思っているらしく
「やかましい!怪我人のくせに医者の言う事聞かず走り回っている坊主にはこれで十分だ」
いっぱしの軍人を坊主呼ばわりしてフンを鼻を鳴らす。そうして
「下にある無線機がなにやら喚いているぞ。さっさと行って止めて来い」
犬を追い払うように手を振って命ずる姿におむつの頃から面倒をかけている若造はとても逆らえずそのままロイの視界から消える。後に残された患者と医師の間に微妙な沈黙がぽかりと落ちてそこを埋めるようにわんと犬が吠えたところで
「儂は、ダニエル・ラックレー。御覧の通り田舎の医者でこいつは相棒のフレッド。あのハボックのとこの馬鹿息子が昨日の明け方あんたを担ぎこんで来てから丸1日経ったわけだが具合はどうだね、えーと」
まずは自己紹介とばかりにごつい手が差し出される。それを握り返しながらロイはちょっと逡巡し
「色々と御迷惑をかけてすみませんでした。ドクター・ラックレー。私は東方司令部所属ロイ・マスタング大佐。ジャン・ハボック少尉の上官です」
感謝を込めて医者にしてはごつい手を握り返す。
医師の表情はイシュヴァールの英雄の名にも変らなかった。そうかと頷いて聴診器を首に掛け簡単な問診を始める姿にロイはふと思いつく─この医師は多分元軍人ではなかったのかと。だってハボックはロイの名を明かしてはいなかったそうだし、多分詳しい説明もしていないだろう。それなのにこの医師は何も聞かずにこの不審な患者を受け入れたのだ。
いくらハボックを幼い頃から知っているとはいえ田舎の医師にしては大した器量ではないか。もしかしたらこの男は気がついていたのかもしれないロイの正体に。
「脈拍も体温も血圧も正常に戻っている。詳しい事は判らないが取りあえず元には戻ったらしいな」
ロイの思惑を余所に聴診器を外して医師は淡々と診断を下す。それにはロイも異存ないから
「ええ、身体のだるさも感じませんし、頭痛もない。御迷惑をおかけしましたが今日中には司令部に戻るつもりです」
と答えたら相手の表情が途端にさっきみたいに厳しくなった。
「今日中?馬鹿言っちゃいかん。あんたは昨日まで重病人と変らぬ状態だったんだ。それを1日休んだぐらいで治った気になっちゃ困る」
「しかしドクター」
「しかしも何もない!第一イーストシティに戻るにも鉄道は使えんのだぞ。車で移動するのがどんだけ負担になるか軍人なら判ってるだろうが!」
天下の国家錬金術師を頭から怒鳴りつける医者が居たとは。仕官学校以来の怒声にロイ思わず首を竦め反論もできずにこくこくと頷く。
「後でまた点滴をするから、それまで大人しくしておれ。ジャンもあまり煩わすんじゃないぞ」
最後のセリフは部屋の外に控えていたハボックに向けられたものらしい。その言葉通り通信機を抱えて神妙に入ってきたハボックは
ね、大した爺さんでしょう?
とばかりにロイに下手なウィンクを寄越した。

無事でよかった。数日ぶりに聞く氷の副官の声は少し震えていたか知れない。それに
「心配かけてすまなかった、ホークアイ中尉」
と珍しく素直に謝ったら
「書類の山がお待ちかねです。当分は大人しく執務室から出ないよう」
と思いきり釘を刺された男は苦笑しながらもハイと答えるしかない。
そうして不在の間の情報を交換し鉄橋事故への対処を指示するとようやくロイは日常に戻った事を実感した。
帰りの車の手配を頼み通信を終えるとハボックは御苦労様と湯気の立つカップを差し出す。爽やかな香りとほんのり蜂蜜の甘さに肩の力を抜いたロイはそこで同じようにカップを抱えたハボックにやっと事件の全てを話し始めた。あの手紙から始まって何故自分が監禁されたか、あの執事は何をしようとしていたか
イシュヴァールから始まるドクターマクガリティとの因縁の全てを。
ハボックにはそれを聞く権利があると思った。

「これが事件の全てだよ、ハボック。私はこの件を公にはしないつもりだ。マクガリティ邸は私が到着する前に不測の火災で消失した・・そうセントラルにも報告する」
そうしなければあの研究の存在を完全に葬ることにならないだろう。幸い事件を知っているのは腹心の部下だけで彼等がロイの命に背く事などあり得ない。もちろんハボックだってそうだ。
アイ・サー。とあっさり頷いた男はそこでひたと青い瞳をロイに向けて言った。
「だけど約束して下さい。今度こんな事があったら必ず誰か・・俺を連れて行くと」
「ハボック」
「事件の真相は判りました。でもそれより大事なのはもし俺が間に合わなかったらあんたの身体が乗っ取られてた。そっちのほうが重大です。俺は危うく大佐を失う所だったんだ」
もしもあの時イーストシティに帰っていたら、アームストロング少佐の話を聞かなかったら。こうして目の前にいる黒髪の大佐は永遠に失われていた─その焦燥に似た痛みがジリジリとハボックの心を灼く。
「イシュヴァールでなにがあったにせよ、ドクターにもあの執事にもそんな事する権利なんてない。あんたが気に病むことなんか何1つありません」
きっぱり言い切った言葉にロイは何を思ったろう。ただそうだなと頷いてそれからズボンのポケットを探り
「返すよハボック。これのおかげで私は助かった」
差し出した掌に乗っているのは銀のライター。ロイの最後の武器となったもの
「だけど約束はできない。1人で動いた方が良いと判断したら私はこれからもそうするだろう。でも黙って行ったりはしない必ずお前達に行き先は告げる・・それではダメか」
口約束で目の前の部下を丸め込むのは簡単だ。そんな事それまで何度もしてきた。だけどこの真摯な蒼い瞳に向かって口先だけの言葉を与える事はロイにはできない。目の前のこの男だけにはどうしても
その思いは通じたろうか。垂れ目の男は仕方ありませんねと肩を竦めて差し出された手をそっと押し返す。
「ならせめてこのライターは持っていて下さい。あんたの敵は発火布しか見ないから、これが最後の切り札になるようにずっと持っていて」
俺の代わりにと大きな手がそっとライターを握らせる。そうしてそのまま手の暖かさを確かめるように包んでいた手がすぃと白い頬に触れた。
「これを預けた時に言った事憶えてます?大佐」
銃胼胝のできた指はそれ以上動こうとはしない。だから触れられたロイにはその感触が全てだ。そのそっとただ羽根が触れたような微かな接触なのに─ロイはハボックの熱を、生命を感じた。1つ間違えていれば失われていたそれが離れていくのが嫌でロイはそっと頬をそれに押し付ける。
ちょっと驚いたようにぶれた手はすぐにしっかりとロイの顔を支えやがてもう片方の頬も同じ熱に包まれた。
「続きしていい?」
閉じられた瞳が返事の代わりだ。
YESかNOか─ロイの駄犬はやっと正しい答えを選択した。

な・・長かった。やっとここまできたぞー。

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